神社名 | 八剱八幡神社 | やつるぎはちまんじんじゃ |
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建物 | 本殿(流れ造り) | 6坪 |
幣殿 | 6坪 | |
拝殿(入母屋造り) | 18坪 | |
御祭神 | 誉田別命 | ほんだわけのみこと(應神天皇) |
息長足姫命 | おきながたらしひめのみこと(神功皇后) | |
足仲彦命 | たらしなかつひこのみこと(仲哀天皇) | |
素盞嗚命 | すさのおのみこと | |
日本武尊 | やまとたけるのみこと | |
末社 | 三社神社 | ・御嶽神社 ・三峰神社 ・稲荷神社 |
祖神社 | ・屋船久久能知神 ・屋船豊受姫神 | |
・手置帆負神・彦狭知神 |
由緒
当社の社伝によると往昔このあたり一帯の地を八剱の里と呼び、この里の神を八剱の神と称え、この神に仕えるはふりを八剱と申した。
人皇第12代景行天皇の40年、日本武尊御東征の折り、相模国(神奈川県)より此の地に渡らんとするとき、浦賀沖で暴風雨に遭遇し御船が転覆寸前となった。そのとき妃橘姫が、「これ尊の相模の地より此の海を望み給ひて、これ小海なり、立跳りにも渡りつべし、とあさみ給ひしに依りて渡津海の神の怒り給ふなり」と海の神の怒りを静めようとして、尊の身代わりとなって御入水あそばれた。そのことにより、尊は無事に此の地にお着きになりましたが、姫の死を悼んでしばらく当社にご滞留になり、此の地を去ることをなさらなかったので、「君去らず」と呼ぶようになり、なまって現在の「木更津」になったと伝えられる。
源頼朝鎌倉幕府開幕に当たり、神領を寄進して社殿を造営する。
天正19年徳川家康公社領3石2斗を寄進せられ、御朱印の証を授与される。慶長17年大阪冬の陣が起こると木更津より多くの船頭が召出されて、向井忠勝、小浜光隆軍のもとで目覚しい働きをした。これも八剱八幡神社の霊験加護のたまものであるとして、特に当社の宮司らを駿府城内に招き、銅鳥1隻と銀子を贈り神恩に感謝した。
宝暦2年に木更津の大火に依り社殿焼失。安永2年に現社殿を再建。寛政9年に社殿修理を加える。大正3年に社殿の大改修をする。また、明治4年には郷社に列せられる。昭和55年の社殿改修に際しては、格天井装飾画(162枚)も復元され、現在は厄除・交通安全・初宮詣・七五三詣・商売繁盛・合格祈願・学業成就等の守護神として鎮座する。